
氷雨先生の ご連絡です
夜分の連絡を失礼致します、氷雨です。
terriさん。
少しだけ、あなたに話がしたくなりました。
世間はお盆休みということで、研究室の周辺もいつもより静かだ。
普段は日が暮れても近隣の建物から漏れ聞こえてくる生活音があるのだが、この時期だけはそれもずいぶん減る。
皆、帰る場所に帰っているのだろう。
…実は今日、母の施設に顔を出してきました。
お盆だからというわけではない。
僕は定期的に母の元に足を運ぶようにしているので、たまたまこの時期に重なっただけのことだ。
…そう言い張りたい気持ちがあるのだが、正直なところ、この時期になると足が向きやすくなるのは事実かもしれない。
認知症を患って以降、母は僕のことを息子と認識してくれる日もあれば、そうでない日もある。
どちらの日であっても、僕がすることは変わらない。
近況を報告するわけでもなく、何か特別な会話をするわけでもなく。
ただ傍に座って、同じ時間を過ごす。
それだけのことだ。
今日は、どうやら「そうでない日」だった。
僕が誰なのかはわからない様子だったが、それでも母は僕に向かって一言だけ言いました。
「暑いのにわざわざ来てくれて、ありがとうね」
息子としてではなく、ただの来客として向けられた礼。
以前の僕なら、その事実を寂しく思ったかもしれない。
しかし今は、不思議と穏やかな気持ちで受け止めることができた。
息子として認識されているかどうかに関わらず、母が「ありがとう」と言えるだけの穏やかさの中にいるのならば、それでいいと思えるようになったのは、いつからだったか。
帰り際、売店でペヤングの焼きそばを一つ買い、施設のスタッフに「母が食べたがったら渡してやってください」と預けてきました。
食べるかどうかはわからない。
けれど、あの味と匂いが母の中の何かに触れてくれることがあるかもしれないという、根拠のない期待だ。
研究者としてはおよそ不適切な、データの裏付けを持たない行為だが。
時には、そういうこともあっていいのだろう。
…terriさん。
お盆とは本来、先だった方々の魂がこの世に帰ってくる期間とされている。
僕のような鑑定師の目から見ても、この時期は確かに目に見えない存在たちの気配が色濃くなるのを感じる。
それは必ずしも大仰なものではなく、風が凪いだ真夏の夕暮れに、ふと肌に触れる涼しさのようなものだ。
空調の風でも、夕風でもない、説明のつかないかすかな涼しさ。
それを「気のせい」と片付けることは簡単だが、僕はそうは思わない。
誰かがそこにいることを、肌が覚えている。
そういうこともあるのだと、僕は思っている。
terriさんにも、この時期に想う方がいらっしゃるかもしれない。
もう会えない方かもしれないし、遠く離れている方かもしれない。
あるいは、すぐ傍にいるのに上手く想いを伝えられずにいる方かもしれない。
僕がどうこう言えた立場ではないのは重々承知しているが、一つだけ。
想うことそのものに、力がある。
その事実は、改めてここであなたにお伝えしておきたく思います。
帰る場所、という言葉について考えることがあります。
子供の頃の僕にとって、帰る場所は深夜にカップ焼きそばの匂いがする台所だった。
今の僕にとっての帰る場所がどこかと問われたら、おそらくこの研究室と答えるだろう。
薄暗いデスクライトの下で、コーヒーを片手に、あなたの鑑定ノートを開く。
地味で、誰にも見られることのない時間だが。
僕にとってはここが、帰る場所だ。
不思議なものですね。
帰る場所というのは、必ずしも人に迎えられる場所とは限らない。
自分が最も自分でいられる場所。
そこに帰ってきた時に、ああここだ、と思える場所。
それが帰る場所なのだとしたら、terriさんにとっての帰る場所はどこなのだろうか。
…すみません、答えを求めているわけではないのです。
ただ、この静かなお盆の夜に、あなたにも同じ問いを投げかけてみたくなっただけだ。
本メールに返信は不要です。
もしも今夜、少しだけ時間があるなら。
あなたにとっての「帰る場所」について、ほんの少しだけ想いを巡らせてみてください。
その答えがどんなものであれ、それはきっとあなたの中で大切に温めるべきものだと思いますから。
また、terriさん。
氷雨 愛(ひさめ いとし)
